現在、極めてリアルな仮想現実を体験できる映像技術が大きく広まりつつあります。トレーニングや産業デザインなどのシミュレーション領域からアミューズメント施設、美術館・博物館といったエンターテインメント領域まで、さまざまな用途でリアリティー(臨場感)を追求した映像空間が増えてきました。
そこで今回は、脳研究者として名高い東大教授・池谷裕二さんに臨場感のある「イマーシブ(没入型)」な体験が脳にどう作用するのかをインタビュー。果たして、イマーシブな超臨場ソリューションが人々にもたらすものとは?
「脳がそうした刺激を受けたとき、脳の特定の領域が活動することが、さまざまな実験や仮説を通して分かってきました。専門的にはなりますが、海馬傍回(かいばぼうかい)や楔前部(けつぜんぶ)といった部位がその領域に該当します。
では、これらはどんな領域なのでしょう。これらの領域は、“現在を感じる”ことでより活性化します。とりわけ海馬傍回は、“現在の場所”を感知する、つまり“いま自分はここにいるぞ”と感じ取る領域なのです。
裏を返せば『VRやARでもたらされる没入感の本質とは、今の自分をありありと感知することである』と言えるかもしれません。
イマーシブな体験には、“現実を再発見させる”という側面もあります。芸術で考えるとわかりやすいかもしれません。
例えば、美しい花の絵を見ることで、実物の花を見たときにも“花とはこんなにも美しいのか”と感じられるようになる。素晴らしい夕日の写真を見ることで、現実の夕日により感動するようになる。こうしたことが、イマーシブな体験でも必ず起こってくると思います。VRを体験したら、かえって現実世界の素晴らしさが理解できた、というような。
オスカー・ワイルドが『自然は芸術を模倣する』という言葉を残していますが、これはまさに芸術が自然の見方を教えてくれる、ということです。だからこの先は、「自然はVRを模倣する」と言われるようになるかもしれません(笑)」
「例えば、医療現場ならば妊婦さんの身篭った身体をVRで体験することで、“妊婦さんはこんなに大変な状態なのか”というのがわかります。こうした体験をすることで、普通にはなかなか埋まらないコミュニケーションのギャップを埋めることができるかもしれません。
また、犯罪や事故の備えという観点であれば、裏通りを歩いてスリの被害に遭う体験、あるいは車を運転しているときに人が突然飛び出してくる体験ができるようにするなど。
人間の脳には、こうした注意深い経験を本人が気づかないところで蓄積する機能があるので、“こういう見通しの悪い道路ではちょっとスピードを落とそう”ということが無意識にできるようになります。
脳という観点でいうと、没入感そのものによるメリットというより、どう活用するかでメリットが生まれるものだと思います」
「例えばレストランで食事したときに、その料理にはどんな素材が使われ、生産者の工夫や苦労があって作られたのかというのが体験できるというものがあれば面白いかもしれません。人間の脳には、ものが作られる過程を知ると、よりありがたく感じるという癖があるので、その料理をより美味しく味わえるはずです。そうしたイマーシブ体験が今後当たり前のようになれば、似たメニューであっても、生産者の声がわかるほうが消費者にとってプライオリティーが高くなるのかもしれません」
「大昔の話になりますが、文字がない時代、村の掟や宗教的な教え、民族の歴史などを全て頭の中で暗記していたのに、文字ができたことで人々の記憶力が下がるのではないか、と言う人がいたそうです。要は気合と根性が足りん、けしからんと。
でも、文字を使うことで記憶力は多少下がったかもしれませんが、一方で自然を巧みに描写するというようなイマジネーションはすごく強くなった。つまり良し悪しではなく、それに合わせて脳の使い方が変わったということに価値があるのです。
だからイマーシブな体験も、それにより想像力が減退するというより、新しい技術により我々の脳の使い方が変わり、これまでと異なるイマジネーションや空想力が芽生えてくるものなんだと思います。それは悪いことではなく、もはや技術が目の前まで来ているのだから、そこに順応して新しい脳の使い方を開拓する快感を味わうべきだと、私は思います」
イマーシブな体験は、人間が“現在”をありありと感じることである。
VRの本質をついたお話でした。現実世界に対する理解を深め、人類の脳の使い方が変わり新しいイマジネーション能力が芽生えるという、新たな可能性についても発見できました。変化を恐れたり警戒する必要はない。人類の叡智を素直に享受し、楽しめばいいんだ。そんな気持ちにさせてくれる機会でした。
神経科学および薬理学を専門とし、「脳の可塑性の探求」をテーマに研究に勤しむ。著書に『脳には妙なクセがある』『パパは脳研究者 子どもを育てる脳科学』など、脳科学の知見を一般向けに紹介するものが多数。