デジタル技術を活用して、企業活動やサービスをより高度に進化させることを目的とする「デジタルトランスフォーメーション(以下、DX)」。ビジネスシーンで語られることの多いキーワードですが、大学をはじめとする高等教育の現場にもDX推進の波が押し寄せています。DXによって、今後の大学教育はどのように変わっていくのでしょうか。大学教育のDXを推進する産学官連携プロジェクト「スキームD(Scheem-D)」の企画・運営に携わる文部科学省の服部正 企画官にお話を伺いました。
「オンラインによる遠隔授業が全国規模で普及するなど、新型コロナウイルスの影響で大学教育の現場にもDXの波が押し寄せています。2017年に実施した文科省の調査によると、何らかの遠隔教育の実施経験がある大学は全体の30%にも満たない状況でした。しかし、2020年6月1日時点では、全国の高等教育機関(国公私大および高等専門学校)のほとんどで遠隔授業が実施されている状況です。
これはいわば、コロナ禍という危機的状況の中で、大学側も否応なくそうした事態に向き合わざるを得なくなった“非常時の対応”による結果だとも言えるでしょう。
日本に先んじて海外では、新型コロナウイルス流行のかなり前から、高等教育のDXに力を入れてきた流れがあります。例えば、インターネット上で誰もが無料で講義を受講できる「MOOC(ムーク:Massive Open Online Course)」と呼ばれるオンライン講座が有名です。これを利用すれば、国を越えて有名大学の授業を誰でも履修することができます。
アメリカなどの国では、MOOCをはじめとする遠隔教育はすでにかなり一般的なものになっています。教育格差が大きかったり、人材流動が激しいため常に労働者にスキルアップが求められたりなど、アメリカという国特有の事情もその背景にあるかとは思います。それに比べると日本はやや遅れていたわけですが、コロナ禍がひとつのきっかけとなって、これまでの遅れを取り戻すように大学教育のDXが進んでいく公算は大きいと言えます」
「大学教育が抱える何らかの課題が解決されるというより、DXを進めることで大学教育の現場でできることが増える、あるいは大学教育がより高度なものに進化する、というような捉え方が正確かもしれません。
具体的なメリットを挙げるなら、まずは『時間・場所・費用(コスト)からの解放』です。例えば、デジタル配信の授業なら、学生は好きなときに好きな場所で授業を受講できますし、自分のライフスタイルに合わせた学び方も可能です。海外大学とのコラボレーションやリモートでの留学体験などもできるようになるでしょう。より多くの人が講義を受けられようになることで、学生一人あたりが支払う学費などの費用も抑えられるかもしれません。
二つ目のメリットは『学びの可視化と質の向上』です。受講履歴や習熟度をデータで細かく可視化することで、自分のレベルや興味関心に合わせて授業を組みやすくなります。教員側としても、学生の反応や講義への参加状況をデータ化することで、学習状況をより明確に分析・把握することが可能になります。VRやARといった映像技術を活用すれば、実習などもより高度なものにできると考えられます」
「新しい技術が世の中の仕組みを変えてしまう、ということがたまにあります。大学教育のDXにおいても、そうしたことが起こり得る可能性は高い。例えば『学位』というもののあり方。これまでの大学教育は、ある特定の学部に入学して卒業までに規定の単位を取得し、卒業証書としての学位を取得する流れが一般的でした。
しかし今、海外ではデジタルバッジなどの技術を活用して、これまでよりも学習単位を細かく区切り、より専門的で職業に直結するような内容を学べる『マイクロクレデンシャル』『ナノディグリー』という新しい学位の考え方が出てきています。これはまさに、技術が世の中の仕組みを変える象徴的な事例のひとつです。企業が学生を採用する際のやり方や考え方にも変化を及ぼすでしょう」
「例えば、これまでの日本における新卒採用の根底にあるのは、大学の学部と業界がそのまま縦につながっているような垂直統合型の仕組みです。ある特定の大学や学部を卒業して、そのまま関連性の高い業界や企業に就職するというような。しかし、社会の変化がめまぐるしい今、卒業大学や学部を重視する従来の学位の考え方では、企業側が本当に必要な人材をキャッチするのが難しくなっている。
つまり、企業側に具体的に欲しい人材像があるのなら、『学生が大学で何を学んできたか?』をより突き詰めて考えざるを得なくなっているのが現状なのです。学生がどんなスキル・知識を持っているかを正確に把握できれば、効果的なマッチングにもつながります。そうした意味で『マイクロクレデンシャル』や『ナノディグリー』が注目を集めているのです。
そして、企業側が『マイクロクレデンシャル』『ナノディグリー』を重視するようになれば、必然的に学生からのニーズも増え、大学側もより積極的に導入するようになるでしょう。裏を返せば、学生を採用する企業側がまずデジタル化の重要性を認識し、これまでの考え方をアップデートすることが、大学教育のDX普及を考えるうえで非常に重要だということです」
「大学教員や民間企業からデジタル化推進の新しいアイデアを募集し、それを実際に教育現場で実践していくプロジェクトです。そのためのきっかけの場として、公開のピッチイベントを定期的に開催します。
ピッチイベントでは、大学教育におけるデジタル活用のアイデアを持つ企業、もしくは大学教員などが簡単な提案プレゼンを行います。その内容に賛同した教員、大学、企業がマッチングすると、実際にアイデアを試行する場を用意し、そこでの実施結果やプロセスも情報発信しながら、大学教育におけるDXの知見を蓄積していく流れになります。
スキームDで重視したいのは、同じ志を持つ人々が集まるコミュニティーをつくること。大学教育のDXは、大学が単独で進めようと思っても難しいものがあります。そこで外部企業の協力を仰ぎたいわけですが、そもそも大学側にどのようなデジタル化のニーズがあるのか、また企業側がどのような技術を持っているのか、双方まったくわかっていないのが現状です。
それらを可視化するひとつの試みが、ピッチイベントというわけです。そこでのコミュニケーションを通じて企業と大学がつながり、同じ志を共有するコミュニティー形成の場となれば、非常に理想的です」
「必要なデジタル技術は現状、ある程度出揃っています。決して大学教育に使える技術が不足しているわけでも、海外と比べて日本が技術的に劣っているわけでもありません。問題は、そうした技術をどのようにパッケージ化して、実際の現場で使えるものにしていくか。デジタル技術をただ提示するだけでは、DX推進はうまくいきません。さまざまな技術の組み合わせや、設計・デザイン部分が重要なのです。
例えば、現場で授業を行う教員にも、それぞれのスタイルやこだわりがあります。教員がどのような授業を理想として、デジタル技術でどのように授業を変えたいのか、技術を提供する企業側がそこにある思いをきちんと汲み取って現場とともに考え、ニーズに適したパッケージを提示する必要があるでしょう。
今までは教員がどのような授業を展開したいのか、大学側が本当に欲しいのはどのようなツールなのか、企業が深く入り込んで話を聞ける場がありませんでした。それを実現する場としても、スキームDを機能させていきたいのです」
「大学と学生、双方にとっての本当の価値とは何か。これを一緒に考えてくれる企業が参加してくれたらうれしいですね。教育の現場にいる人とビジネスの現場にいる人では、普段使っている言葉や価値観も違いますから、すり合わせには根気も必要です。そのための場としてスキームDを機能させることが重要ですし、我々、運営側としてもそのための効果的な設計に尽力していきます」
日本における大学教育のDX推進を左右するには、大学や学生はもちろん、そこに参画する企業の協力や考え方のアップデートが必要不可欠。そのように服部さんは語ります。企業がより高度な人材を確保し、自社のビジネスを加速させるうえでも、大学教育のDXへの参画はこれから非常に重要なものになっていくはずです。そのために企業側としてできる変革は何か、あらためて考えさせられるお話となりました。
文部科学省 高等教育局 専門教育課 企画官
大阪大学大学院で原子力工学を専攻後、2002年に文科省に入省。主に、科学技術行政分野に従事。在カナダ日本国大使館一等書記官(科学・教育担当)を歴任。内閣府出向時には、統合イノベーション戦略、バイオ戦略の策定を担当。2020年7月から、データサイエンス・AI教育、インターンシップ、大学教育のデジタル化推進プロジェクト「スキームD(Scheem-D)」の担当者に就任。