「インフォデミック」という言葉に注目が集まるなど、新型コロナウイルスの流行によってソーシャルメディアとそれを取り巻く環境にも大きな変化が現れています。コロナ以降のソーシャルメディアと情報環境のあり方は、果たしてどのようなものになっていくのでしょうか。『アフターソーシャルメディア 多すぎる情報といかに付き合うか』などの著書がある、法政大学社会学部の藤代裕之教授に、ソーシャルメディアの現状と今後の展望についてお話を伺いました。
「政府や専門家の情報発信のあり方とそれに対する人びとの行動変容の様子は、流行初期から常に観察してきました。ソーシャルメディアでは膨大なデータが可視化されるため、人びとが抱いているリアルな気持ちや“インサイト”まで分析できる。
例えば、政府からコロナに関連する情報やメッセージが発信されたときに、ソーシャルメディアを観察すると、そのメッセージに対する人びとの反応と行動変容の様子が見えてきて、今後の予想や対策にも役立てることができるわけです。これはソーシャルメディアを活用する大きなメリットだと思います」
「はい。ソーシャルリスニングは行政や企業も積極的に実施すべきだと考えていますが、なかなかそうはなっていない現状があります。コロナ禍で不安を抱える国民に対して行政側も効果的なメッセージングができておらず、全体としての “データを読む力”の弱さが浮き彫りになっているようにも感じます。
これまでのソーシャルメディアでは、バズやフォロワー数といった表層的な数字ばかりが注目されがちでした。そうではなく、ソーシャルメディア上の膨大なデータを分析したうえで人びとがどのようなことを語り、どのようなアクションを行なっているのか、そこに対する洞察こそが重要なのです。人びとのインサイトに沿った的確なメッセージを発信することが、行政や企業に今強く求められているのではないでしょうか」
「企業がソーシャルメディアを活用する場合、“発信”のツールではなく、“聞く”ツールとして使う方が効果的だと考えています。ある施策やメッセージが短期的にバズったとしても、現代のような情報過多な社会では、すぐに大量の情報の波に埋もれ忘れ去られていくでしょう。単なる数字ではなく、ソーシャルメディア上でどんなことが、どのように語られているのか。そこに流れる潮流に目を向けることの方が何倍も重要です。
そうした意味でソーシャルリスニングは非常に有効な手法ですし、新しい製品やサービスを開発するときにも生きてきます。ポイントは『自社の製品やサービスを利用する人びとが、今どんな想いを抱いているのか?』に目を向けること。
本当にいい製品って、手に取ったときに『なんかいいよなあ、これ』とうまく言葉にできない“感じ”があると思うんです。刺さる広告やキャンペーンというのは、人びとがなんとなく抱いている“いい感じ”を的確に言語化して、表現に落とし込んでいる。人びとのそうした“感じ”を拾い上げるためにソーシャルメディアを活用する方が、より生産的ではないでしょうか」
「データと直感、二つの視点を行き来しながら観察することです。どちらか一方だけでは駄目で、私はよく“量”と“質”の組み合わせだと言っています。
何千、何万という膨大なツイートを見ていると、『このワードよく目にするな』とか『よくわからない変なツイートがバズってるな』とか、さまざまな気づきや違和感を得ることがあります。異なる断片から得た直感をとっかかりに、全体のツイートのデータを定量的に解析すると世の中の大きな流れが見えてくる瞬間がある。
非常に優秀なマーケターやクリエイターの中には、こういったことをすごく直感的にやっている人もいるわけです。私はそれを“知の技法”として再現可能なスキルに構造化しながら、学生たちにもその手法を教えたりしています」
「そこがすごく難しいポイントで、こうした手法は企業が『自社の製品やサービスの改善につなげる』という明確な目的意識を持ってやる分には有効です。
しかし、生活者レベルでこれを実践しようとすると、陰謀論的なものに行き着いてしまう危険性が極めて高いのです。自分にとって都合のいい情報をつなぎあわせ、自覚もないままに自分好みのストーリーを頭の中でつくり上げてしまう。テクノロジーの進歩によって、個々人が欲しい情報やパーソナライズされた情報がどんどん飛び込んでくる状況も、こうした傾向を後押ししています。
『メディアリテラシーを身につけ、批判的に情報を読み解きましょう』という言説をよく耳にします。しかしそれは逆で、リテラシーが高いからこそ人は情報を深掘りし、それを自分の解釈で結びつけ、結果フェイクニュースや陰謀論を信じてしまうのです。コロナ禍以降、そのようなメディアリテラシーの恐ろしさを私たちはまざまざと見せつけられているのではないでしょうか。
そもそも、これほどまでに大量の情報が氾濫しテクノロジーも人を誘導しようとする世の中で、個人が情報を正しく読み解くということ自体が、もはや不可能になりつつあるのだと思います」
「ソーシャルメディアを運営するプラットフォーム企業の責任を明確化すること。特にそれが今強く求められていると思います。プラットフォームは、誰もが使えるインフラのようなもの。一方メディアは、主体的に情報の発信や編集を行うものです。ソーシャルメディアは果たして“メディア”なのか“プラットフォーム”なのか。まずは、そこを明確にする必要がある。
例えば、ソーシャルメディア上のとある投稿を運営元企業が問題視し、削除したとします。その際に、ある投稿は削除されたのに、同じような投稿をしている別の人は削除されないというような恣意性や不均衡が往々にして見受けられます。
そのような選別を行うのなら、それはメディア的な振る舞いであり運営企業はメディアとしての責任を負う必要がある。メディアであることを否定しあくまでもプラットフォームに徹するというのなら、裁判所や第三者機関が下す判断や基準に沿って、削除の線引きをより明確でオープンなものにしなければならないでしょう。
そういった整理を徹底して、ソーシャルメディアを取り巻く“情報の生態系”をクリーンなものにしていく。それができて初めて、個人のメディアリテラシーが機能する余地も出てくるのだと思います」
「難しいのは今後、『何がプラットフォームで、何がメディアか?』といった議論は、より複雑なものになっていくであろうこと。
例えばこれから、製造業はメディアになっていくことが予想されます。5GやIoT、AIといったテクノロジーの進化で、モノや製品から人間のデータを収集し解析することが容易にできるようになっていますが、行動や身体からデータを収集し、それに対してフィードバックを与えるのは非常にメディア的な行為だからです。
しかし、現状では多くの企業が恐らくそのような認識を持っていません。
『でも、それってアリなの?』という議論が今後必ず出てくるはずです。AI倫理についての議論が最近注目を集めているように、モノにまつわる倫理的な議論を、今後さまざまな場所で耳にすることになると思います」
「これまで新聞などのメディアは、情報を製造し、自分たちが発信した情報に間違いがあれば訂正と謝罪を行いながら、メディアとしての社会的責任と信用を築いてきました。でもそれって、従来の製造業やメーカーもやってきたことだと思うんです。
自社製品のクオリティーを高め、何度もチェックを繰り返し、万が一不備があったら迅速に回収して消費者にただちに謝罪のメッセージを発信する。情報やデータの取り扱い方も基本的にはこれと同じです。しかし、扱う対象が洗濯機や自動車といった物質的なものから、“情報”という非物質的なものになった途端に、多くの人がその取り扱いに無頓着になってしまう。
今後、さまざまな企業がメディア化していく中で、情報やデータの扱い方はより慎重に考えていくべきですが、そこに対して過剰にネガティブになったり、恐れたりする必要はありません。失敗や試行錯誤を重ねながらでも、メディアとしてのあり方を学んでいく姿勢が重要なのだと思います。
新聞などのメディアはそうしたことに100年以上も取り組んできたわけで、“メディアとしてのあり方”を考えるうえで、企業が既存メディアから学べることは、まだまだ多いのではないでしょうか」
これまでメディアとしての立ち位置とは縁遠かった企業が、急速に“メディア化”し、その責任を問われる時代が到来する。藤代教授はそのように予言します。そうした中で、ソーシャルメディアをいかに生産的なツールとして役立てていけばいいのか? 今からどのようなことを考えておくべきなのか? ポストコロナ時代の大きなヒントとなるような、示唆に富むお話となりました。
法政大学社会学部メディア社会学科 教授/ジャーナリスト
法政大学大学院 メディア環境設計研究所 所長
専門はジャーナリズム論・ソーシャルメディア論。1996年、徳島新聞社に入社。新聞記者としてのキャリアを経て、2005年NTTレゾナントに転職し、ニュースエディターや新サービス開発などを担当。著書・編著に『ネットメディア覇権戦争 偽ニュースはなぜ生まれたか』(光文社)、『ソーシャルメディア論 つながりを再設計する』(青弓社)、『アフターソーシャルメディア 多すぎる情報といかに付き合うか』(日経BP)など。