「失われた10年」と呼ばれた平成不況の時代、どのメーカーもモノが売れなくて大変な時期を経験した。もちろんソニーとてその例外ではなかったわけだが、その中に有りながらもなお「神話」が揺らがなかったもの、それがソニーのヘッドホンだと思っている。
特にハイエンドモデルにおける妥協の無さは、常に世の中のオーディオファンを驚愕させてきた。そして今、アウトドアユースで最高の音質を提供する「MDR-D777SL」が登場した。
アウトドアと最高音質、この矛盾する命題を解決できるのは、ソニーしかない。
ソニーイーエムシーエスのエンジアリングマネージャーである角田直隆(つのだ なおたか)氏は、ヘッドホン好きの筆者が個人的に「ヘッドホンマスター」として敬愛する人物である。これまで角田氏が送り出して来たヘッドホンは、ことごとく世の中を席巻してきたと言っていい。
DJヘッドホンの定番「MDR-Z700DJ」、バイオセルロース振動板を用いた「MDR-E888」、クオリア010こと「Q010-MDR1」、スタジオモニターの最高峰「MDR-Z900HD」などなど、少しでもヘッドホンに興味のある方なら知らないとは言わせない、まさに悶絶して倒れそうな名機のオンパレードだ。これらを設計してきたのが、角田氏である。
そして「MDR-D777SL」(以下D777)ももちろん、角田氏およびそのチームの設計だ。アウトドア最高峰を名乗る、密閉型ヘッドホンの新モデルである。
「92年の秋になりますけど、"eggo"というシリーズで密閉型のMDR-D77、55という2機種を出しました。実はMDの1号機に合わせてリリースしたんですね。それまで密閉型ヘッドホンというのは太くて硬いコードが出ていて、アウトドアに適した商品はなかったんですが、これが非常にご好評をいただきまして。このときからだったんじゃないですかね、密閉型のヘッドホンを屋外で使うということが始まったのは。」(角田)
オーディオと言えば室内で鑑賞するというのが基本だが、現代のオーディオ機器を語る上で、その概念をひっくり返した「ウォークマン」という発明を無視することはできない。そしてステレオヘッドホンを外に持ち出すということも、ウォークマンと共に始まった。今ではごく当たり前の行為も、「初めて」はソニーが作ってきた。
だがそれまでの屋外用ヘッドホンは、すべてオープンエア型だった。それは屋外で使う際に閉塞感がないように、という配慮だったろう。だがソニーは「eggo」で自ら課したセオリーの逆をやって、道を作った。最近ではアウトドアタイプの密閉型ヘッドホンも、他社から数多くリリースされるようになった。
D777のパッケージに付けられた「 」のロゴ。これはかつてアウトドア密閉型「eggo」のコンセプトをベースに、もう一歩ハイエンドに踏み込む商品群である。商品マーケティングを担当するソニーマーケティング シニアマネージャーの野田万紀子氏は、このコンセプトをこう説明する。
「名前の通り歩きながら音楽を聞きましょう、ということなんですが、今回の商品コンセプトとして"いい音を外に持ちだそう"というのがありました。パッと見栄えというか、聞き栄えがするというよりも、本当にいい音を聞かせようと。グループ会社には音楽制作会社もありますので、私たちはそこで作られた音楽をそのまま伝えることが使命だと考えています。メリハリという面は他社の方が感じられるものもあるかと思いますけど、逆に聞こえない音もすごく多い。あっち側では聞こえないけど、これだと聞こえる、というところを大切にしたいと思っているんです。」(野田)
「密閉型も最近は、他社さんもいいものを出されるようになりました。そこでアウトドア密閉型の元祖である我々としては、じゃあどうしようか、ということなんですよ。例えば低音がドカンと出る商品は世の中に溢れていますので、これは無理に我々がやらなくてもいいかなと。あくまでも音楽の構造がきちんと見えるように作るというのが、僕らの仕事じゃないかなと思います。」(角田)
「インドアではMDR-Z900HDを作った。Hi-FiオーディオではMDR-SA5000を作った。それぞれ一番上があったんですね。ただアウトドアのヘッドバンド型では、一番上と呼べるものがなかったんです。ですから"eggo"の後継というよりもむしろ設計の意地があって、アウトドアで最高峰の音を作ろうということから始まっているんです。」
(野田)
ソニーのモデルナンバーで、1、7、9は特別な意味を持っている。特にエースナンバーの7は、そう簡単に貰える番号ではないはずだが、それが3つも付いたD777は、ソニーのヘッドホン史上でもかなり「決め球」的な気合いが感じられる。今回の設計で角田氏が自らに課したハードルとはなんだろう。
「従来のモデルより良いこと、他社競合モデルを超えること、HDドライバーの良さがわかること。特にD777はポータブル製品ながら、80kHzまでの再生というのをやってます。これを実現したHDドライバーは、当初QUALIA010というモデルのために5年以上かけて開発してきたデバイスで、非常に誇りを持っています。」(角田)
ハイエンドのSAシリーズ、そしてZ900HDで採用されてきたHDドライバーは、80kHz〜110kHzといった高周波まで再生可能なユニットである。ただ、これまで存在したHDドライバーは、径が50mmのものであった。しかしポータブル製品に、このサイズは大きすぎる。開発チームは新たに、40mmのHDドライバー開発に挑んだ。単に1cm小さく作ればいいというわけには行かない。1ユニットでフルレンジを再生する難しさ、さらにコンパクト、密閉型となれば、作り方も違ってくる。設計はまったくゼロからのスタートとなった。
「こういうドライバーユニットをやるときには、まず素材と素材の物性とプロフィールとを入れて、振動板だけでシミュレーションやるわけです。あとは補強の形状と材質ですね。まずこのシミュレーションで80kHzまでちゃんと出るかどうかを見極めます。そこでゴールを見といて、試作に入ります。ここでは特性を阻害する要因もというのがいっぱい出てきますんで、一つ一つ地道に取り除いていく。そこに塗るボンドの材質などもありますし、コイル線の引き出し方一つでうまくいかないわけですよ。そういうった一つ一つ要素を取り除いていって、最終的な完成型に至るというプロセスなんですね。」(角田)
新しい40mmHDドライバー単体を見せていただいた。たしかにボイスコイルの引き出し線一つ見ても、振動板に斜めに入れられた補強溝のラインに沿った形で接着されるなど、徹底的に考え抜かれている。接着剤の材料も、使う場所ごとにいちいち違う。こうした地道なトライアルによって、「新HDドライバー」は完成していった。
「高周波の再生には振動板の表面形状が非常に大切なんですけど、それ以上に大事なのが、ボイスコイルのところにある2mmぐらいの補強リングです。ビックリすることにちゃんと測定器で測ってやりますと、振動自体は100kHz付近でもきちっと動いてるんですね。あんまり高い周波数になりますと、普通は分割振動を始めるんです。これも振動板全体で見れば分割振動は起きているんですけど、補強リングのところだけはちゃんとどんな高い周波数までも一定の分布、同相で動くんですね。私もこれは見ていて非常に感動しました。」(角田)
実際に高周波はこの補強リングの内側にある振動板から出てくることになる。元々人間の聴覚は20kHzぐらいまでしかないと言われているわけだが、それ以上の高周波の有無で、音楽はまったく違って聞こえるのだ。
「我々は何も、100kHzの音を聴いて貰いたいと思ってるわけじゃないんですね。ただそこがあるかないかで、音楽の生き生きした感じとか躍動感というのが、どうしても変わってくるように思えてならない。これは私だけじゃなく、使っていただいた皆さんも同じご意見だと思うんです。ご存じのように我々はSACDの中心メーカーでもあるわけですから、当然SACDに入っているものは出さなきゃいけない。そうすると最低50kHzまではきちっと出す。少なくともHiFiヘッドホンというからには必ず出すべきだというのは、我々の信条ですね。」(角田)
聞こえるはずのない音で音質が左右されるというのは、まだ明快に理論で証明されているわけではない。だがこういう不思議が発見されて実用化されるところが、オーディオの面白いところでもある。