1994年マガジンハウス「オリーブ」でデビュー。国内外の雑誌、広告、コレクションをはじめとするショーなどで活躍。クリエイターとして、個展・グループ展、アートフェア等に出展するなど、精力的に活動中。
私はレコーディング・エンジニアです。音響空間デザインの分野や、ミュージシャンとしても活動しています。レコーディング・エンジニアの仕事とは、「そこ」で聴こえている音を、そのままマイクで、あるいはリスナーのためにより美味しいバランスで再現できるように収録することです。音楽であってもアマゾンの森の音であっても、リスナーは実際には「そこ」には居ませんでした。場所と時間とが異なっていますから。しかし録音を再生したときに、まるで「そこ」に居るのと何ら変わらない体験を提供すること、それこそがレコーディングの目的です。その意味で、究極のユーザー・エクスペリエンスとはタイムマシンであると言うことができます。
同じボイスコイルのトランスデューサーであるヘッドホンとスピーカーには決定的な違いがあります。スピーカーの場合、例えばプロ仕様のすごいスペックのものであっても聞こえている音のエネルギーの90%は部屋の反射音です。つまりその部屋がきちんと調整されていない限り、本来録音されている「そこ」の音は再現できないのです。しかしヘッドホンの場合は部屋が不要です。その意味では、その分お金を掛ける価値があるし、コストパフォーマンスが高いと言っていいでしょう。
プロ(制作現場)としての立場でいえば、私にとって理想的なスピーカー再生環境とは、音がヘッドホンなみに正確に再生されることです。つまり音に対する「部屋」の影響をなくすということ。そのためには、その部屋のインパルス応答特性を最適にする(部屋の定在波対策、初期反射調整、吸音/遮音にはお金もかかりますが)必要があります。
仕事を離れ、家庭でリラックスして音楽を聞くためには、まだ、ちょうどいい具合のヘッドホンはなかったと思います。今回はこのMA900をソニーのマルチチャンネルインテグレートアンプ TA-DA9100ES(※生産完了)に繋いで聞いてみました。フルオープンエアー型という耳元と外界の通気を持たせた音響形式で、耳元が蒸れることもなく、軽量な設計と併せて長時間のリスニングに最適と言うことができますね。プロ用ではなく、「変に刺激的ではない落ち着いた音」を安心して楽しめるヘッドホンだと思います。
そしてこのMA900は、変に色を付けることなく、自然な音を聴かせていますね。ルックスも明らかにデザインと装着性重視で設計されているように見えつつ、基本性能である音を安心して聴けることに好感を持ちます。MA900にも、デザインと機能に手を抜かないソニーのDNAがしっかり入っているということでしょう。そして私の主観ですが、デザイン重視でありながら、この黒ベースの外観はすごくこだわりが前面に出ていると思う。これはもしかしたら聴く人の層を絞っているかもしれません。たとえば真っ赤のモデルがあってもいいんじゃないかな?
このMA900の「自然な音」について私の言っていることは、当たり前のように思われるかもしれません。しかし実は市販されているヘッドホンの9割は、まったくもって原音とは違う音色を聴かせているのです。つまりスタジオで作られたマスターと比較して、物理的に正確な音ではない。趣味趣向の世界ですからハデに変化した音を出していてもよい(個人的にいい音ならいい)とも言えますが、ギトギトの照り焼きソースこそが日本食だと思っている人が世界中に多いのと似ています。素材が判らなくなるような味付けが日本食かというと、それはちょっと違いますよね。そして「正確な音」と「いい音」とは必ずしも同じではないのです。味でも音でも、元が判らなくなってしまうほどの色づけ味付けは無意識のうちにストレスになります。もしもこどもの時からそんな環境で育てられてしまうと、感性が鈍くなってしまう。
「いい音」のきっかけを、このMA900から多くの人々に発見してほしいですね。