写真するということは「何を撮るか」と「どう撮るか」という二つのファクターに分けられます。非常に原初的に考えて、写真を撮るという事は「何を撮るか」だけで出来ているといえますが(子供に撮らせてみると解る)、そのうちなんらかの欲が出て来ると、「どう撮るか」という気持ちが擡頭して来る。で、人は段々写真がうまく(!!)なり、いい写真を撮る人と評価される。簡単な道筋ですね。
だが、物事はそう単純ではない。例えば、非常にめずらしいもの(世界で一匹だけの生き物とか?)の写真を撮るとき、「どう撮るか」って言ったって、一番いいのは解りやすいように、当たり前の光で当たり前の画面構成で写真にするのがいい、なぜなら人はその珍しい物が見たいのであり、よけいなテクニックなんか邪魔なだけなのだ、という考え方がある。つまらない物を撮るから特殊な効果や変わった画面構成などを凝らして無理矢理価値を上げようとしているのだ。というわけです。
一方、そんなにめずらしい物が見たいのか。という反論も考えられる。そんな物が大事だというのなら、風景写真家は、世界の誰も行った事のない場所を探し続け、それが飽和したら月へ行き火星へ行き冥王星にアンドロメダに・・・・ということになる。それはなにか違うだろう。第一それでは金持ちの勝ちというだけだ。僕たちは物ではなく、人の心が見たいのであり、写真ならそれを撮った人の物の見方が見たいのだ。それはむしろ被写体よりそれとのつきあい方、つまり「どう撮るか」に現れるものなのだ。というわけだ。
いえ、この話に正解はないのです。いろんな人が居ていい。すてきなことに写真というのは実に幅広いやり方を容認する。しかしだからといってなんでもいいという事ではないですね。言えるのは、上に書いた二つの考えのどちらかだけに偏りすぎてはつまらないということです。それでは写真は分厚いものにならない。つまり、もしあなたや僕が写真することが好きなら、「”私は”、何を撮るか」と「”私は”、どう撮るか」について一度は真面目に深く考えなくてはならない。「何を撮るか」だけで満足してはいないか。「どう撮るか」ばかり考えて中身のない(撮る対象について学ばない)撮影をしてはいなか。時々は自分ならではのその両方のバランスを思わなくてはならないと思うわけです。
「こゆるぎ浜・釣り人」
大磯の浜辺、こゆるぎ浜にはいつも釣り人がいる。こゆるぎ浜は浜辺からいきなり深くなるので、遊泳禁止。いわゆる遠浅のビーチと違って、大きな魚も近くまで来るのだろう。相模湾の沖から、高くうねって打ち寄せる波は波寄せ際でブレイクする。見ているとちょっと危ない気がするが、釣り人たちは上手に大波を避けて、海にアプローチする。曇り空からちょっと不思議な日の光が漏れて、砕ける波と釣り人を浮き立たせる。釣り人が立っているのは、少し盛り上がった砂浜の上だが、低い場所からしかも水面すれすれのローアングルで撮ると、浜が波に覆われて、いっぺんに世界が広くなったように見えた。
「西小磯・畑の街灯」
今月は少し抽象化された、心象風景とも言える写真を何枚かお見せしたい。畑の街灯というのはちょっと変な言葉だが、広い畑の真ん中を通る道に夜のための明かりが幾つかあるのです。夕暮れ時、まだ明るいのに、この街灯が点灯した。このライトは点灯した直後は少し赤みのある光を出す。時間が経てば蛍光灯というか水銀灯のような色になるが、最初は赤い。背景の夕日を浴びた雲の色と同じで面白く、なんか雲に憧れて仲間に入りたがっているように見えた。
「生沢・木々の影」
これも抽象化された、心象風景。日暮れ時、子供達が帰ってしまった公園の木々は、高い梢を寄せ合って美しいシルエットになる。木々は人がいなくなったので安心して、ひそひそ話をしているのだ。その声は風の音にしか聞こえないけれど、邪魔してはいけないので静かに歩いていく。見上げていくそのフォルムは、一歩ごとに変化して見飽きることはない。
「風に研がれた月が出た」
抽象化された、心象風景、その3。「空をさまよふ浮雲に磨かれ出づる秋の夜の月」と書いたのは幸田露伴だが、風が強く雲が飛ぶように流れる晩には、月は一層凛々しく見える。ちょっと露伴の真似をしてタイトルをつけてみた。月を撮るのは楽しいが、何かちょっと工夫しないと誰が撮っても同じようになってしまう。心象風景というのは本来は、「現実にはありえない、心の中にある風景」という意味ですが、写真の場合は、その心の中の風景を、もう一度現実の力を借りて絵にしていく、ということになります。言葉で説明できることは、詩や文章にすればいい。言葉にならない心の中にあるものを作品にするのが写真だと、いうことができると思います。
「吉田茂邸・ポチの墓」
大磯駅から国道1号線を下り、城山(じょうやま)の切り通しを抜けたところに、旧吉田茂邸がある。日本は太平洋戦争の敗戦から米国の統治下におかれていたが、1951年、連合国とサンフランシスコ条約を結んで、独立国として再出発した。この時渡米したのが吉田茂首相だ。大磯の広大な敷地の海際には、サンフランシスコの方に向かって立つ吉田翁の銅像が微笑んで建っている。壊滅的な敗戦から立ち直って、また独立国となったことが本当に嬉しいことだったのだろう。
広い敷地の片隅に、愛犬ポチの墓と書かれた墓石を見つけた。吉田翁は犬好きで10頭以上の愛犬と暮らしていた。邸前の浜辺をよく犬を連れて散歩していたというが、今では邸内にこのほかもう数基の犬の墓が残されている。
この敷地内の邸宅は、2009年に漏電事故で消失していたが、ちょうどこの春、復元が完了し一般公開が始まる。大磯を訪ねる折があれば、是非訪れてみるといいと思う。昔のお金持ちの邸宅と庭園というものが、どんなものだったか解るから。
今月はこれでおしまい。来月はいよいよ春ですね。明るい写真をお見せできそうです。お楽しみに。
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