取材:藤本 健
1997年に発売されたロングセラーのフルオープンエア型のヘッドホン、MDR-F1をベースに70mmのドライバーユニットを搭載する新型ヘッドホンの開発プロジェクトが2010年2月よりスタートした。しかし、そこは茨の道だった。ドライバーユニットを単に交換すればいいというような話ではなく、抜本的な設計のし直しが必要だったのだ。
最初に大きな問題となったのは、中音域の繋がりだ。音響設計を担当したソニーのPI&S事業本部PE1部2課のエンジニア、松尾伴大氏は「低音域の量感はすぐに出ました。低いところの感度もいいし、帯域的にもかなり低いところまで出たのです。ところが低音域が出た反動で中音域が崩れてしまい、ボーカルが沈んでしまうのです。例えれば、軽自動車に2リットルのエンジンを搭載したような感じでしょうか。ドライバーユニットの出力が大きすぎて、的確な動きにならなかったのです。」というように当時を振り返る。
実は、この中音域の繋がりという問題は、製品化されるぎりぎりの段階まで引きずった。いろいろと試行錯誤したが、なかなかうまくいかなかったのだ。
結論からいうと、ドライバーユニットと耳の間に作られる空間が小さすぎたのが原因だった。ドライバーユニットが大きくなることによって耳を覆う形になり、ドライバーユニットと耳との間の空気の抜けが悪くなっていたのだ。それが音響的に悪い影響となっていた。
「当初はMDR-F1と同じ耳ざわりにしようと、同じイヤーパッド素材を使うことを前提に進めていました。このイヤーパッドは通気があまりない生地で、空気の逃げが少なくなっていたのですが、もっと通気性のいいイヤーパッドに交換してきたところ、音のバランスが飛躍的に向上したのです。」(松尾氏)
しかし、このことが判明したのは、量産手配も進みつつあったタイミング。そこから、最適な素材探しが始まったのだ。
「普通なら、もう変更などありえない時期でした。しかし、ヘッドホンにおいては音質がすべてです。音響設計担当が、いうのであれば、それを信じて進むしか方法はありませんからね。いろいろなところを調整し、音を最優先してプロジェクトを進めました」と話すのは、プロダクトリーダーで、機構設計を担当したPI&S事業本部1部2課の石崎信之氏。かなり綱渡りではあったものの、このようにして開発は進められていったのだ。
また、結果的にはイヤーパッドの変更は、音響面だけでなく、快適な装着性を得るためにも重要なポイントともなったのだ。
フルオープンエア型ヘッドホンの場合、密閉型と異なり、もうひとつ大きく異なる問題がある。それはドライバーユニットと耳の距離が近ければ、しっかり低音域が聴こえるのに対し、離れてしまうと、スカスカな音になってしまうこと。しかし、耳の形は人によって千差万別で耳が寝ている人、立っている人などいろいろあるため、誰にでも合う構造というのはなかなか難しい。そこで考案されたのが「アコースティック・バス・レンズ」という方式だ。
「音響抵抗材というものを使い、音響的に音が出る方向を一箇所に絞ることで、耳の穴付近に低音を集めて放射するという手法をとっています。これはMDR-F1で使っていた手法で、これを使うことでどんな耳の方でも均等に聴こえるようになっています。」(松尾氏)
実はこれがかなり効いており、実際にMDR-MA900を装着すると、ずっしりと響く低音には驚かされる。もちろん、低音域だけでなく、高音域をどう出すかも重要。
「単純に大きくするだけだと低音域は出るけれど、高音域のバランスが難しい。やはりドライバーユニットを作る際のネックが高音域がでないことでした。そこで、振動板のドーム部分とエッジのバランスを密閉型ヘッドホン用のものとは変えるなど調整し、フルオープンエア専用のドライバーユニットとして仕上げた結果、高域もしっかりとでるものにできました。」(松尾氏)
とくにインドアで使うヘッドホンとして考えると、音とともに、装着の快適さも非常に重要なポイントだ。実際にMDR-MA900を装着して驚くのは、その軽さ。とても軽いといわれていたMDR-F1が質量200gなのに対し、より大きな70mmのドライバーを搭載したMDR-MA900は195gとさらに軽量化が図られている。まさに装着性を極限まで追求した結果だ。
「装着したときのヘッドバンド部分が軽いと、より軽く感じられます。そこで今回のお手本にしたのはスポーツ用の軽量ヘッドホン、MDR-AS100というもの。その構造を参考にしつつ、バンドの中はステンレス、外側をアルミニウムとマグネシウムの軽金属を使うことで、頑丈さと軽量化の両方を実現することができました」と語るのは石崎氏。
MDR-F1で採用された2つのヘッドバンドを使うのではなく、細い1本のヘッドバンドにすることで、ドライバーユニットが大きくなった分を上回る軽量化ができたのだ。ただ、あまりにも軽いため、ベテランエンジニアからは「これでは強度的に持たないのでは」といった声も出ていた。しかし石崎氏による綿密な強度計算を行った上で作られたこの構造は確かに、頑丈だったのだ。
「細いヘッドバンドではありますが、その中にはコードがコイル状にはいっており、自由に伸び縮みできるようにもなっています。また単に細いだけだと、装着感が悪くなるためヘッドクッションを設置し、可動性にすることで、頭にフィットする仕掛けになっています。これがフレキシブルヘッドクッションです」と石崎氏。実際、2、3時間装着していても、まったく気にならない快適さを実現しているのだ。
このように音質面、装着性、そして強度も含めベストなバランスで完成したMDR-MA900。室内で快適に、最高の音質でサウンドを楽しむためのヘッドホンとして、新たな伝説を築き上げることになりそうだ。