ソニー独自開発のバランスド・アーマチュア・ドライバーユニットを搭載したBA プレミアムヘッドホン。 そのうちのひとつ、XBA-NC85D はノイズキャンセリング型のインナーイヤーヘッドホンだが、従来型に存在したコントロールボックスがなくなり、見た目には普通のヘッドホンと変わらないコンパクトなものになっている。インナーイヤー型のノイズキャンセリングヘッドホンにとって最大のネックであったコントロールボックスをどうやってなくすことができたのか。そしてバランスド・アーマチュア・ドライバーユニットとノイズキャンセリングの相性は。開発者に話を聞いた。
2008年に世界初のデジタル処理のノイズキャンセリングヘッドホン、MDR-NC500Dを発売して以来、他社の追随を許さない高性能なノイズキャンセリングを実現してきたソニー。2009年にリリースしたインナーイヤータイプのデジタルノイズキャンセリングヘッドホン、MDR-NC300Dでは独自開発のインテグレーテッドDNCプロセッサを搭載し、周囲からの騒音を約98.4%も低減するということで、世の中から高い評価を得てきたのはご存知のとおりだ。
これらノイズキャンセリングヘッドホンの開発に長年携わってきたエンジニアである鬼頭氏には、次のノイズキャンセリングヘッドホンを開発する上で、1つ大きな課題であり、目標があった。ソニーもボックス付きノイキャンを発売していたので、少々配慮したいです。例えば、「それは、電池や操作部分が搭載されているコントロールボックスをなくして、いかに通常のヘッドホンの使い勝手に近づけるかということだった。」
「MDR-NC300Dを出したときにも、お客様から『性能はすごくいいけど、コントロールボックスが邪魔で……』とか、『音は満足しているけれど、取り回しが……』という声を多数いただいておりました。やはりコントロールボックスが邪魔であることは明らかだったのです」と鬼頭氏は語る。
そういう思いはありつつも、MDR-NC300Dのときには電池ボックスをなくすことはかなり難しい状況にあった。デジタル化することによるノイズキャンセリング性能の向上はめざましいものがあったものの、そのデジタル処理をするためのデジタルシグナルプロセッサによって消費電力が大きくなってしまっていたからだ。
とはいえ、世の中の技術は日進月歩。ソニーのデジタルノイズキャンセリングヘッドホンの成功後、さまざまなDSPを比較検討する中で、非常に有望なDSPのアーキテクチャを見出し開発した。
それはもともとオーディオ用途とは異なる分野に向けて開発されたデバイスであり、ノイズキャンセリング専用のものではなかった。しかしここで使用されている"多数の小さなプロセッサーを並列に動作させることで必要な演算量に対するハードウェアの冗長度を低く抑える"というアイデアはオーディオにも転用が可能だった。これによって消費電力を今までに無く小さく抑えるプロセッサーが出来上がったのだ。
原型となるDSPのアーキテクチャは音楽用とは程遠い周波数帯域の信号処理を扱うものであったのに対し、音楽用ヘッドホンはより広い帯域なので、そのまま使うわけにはいかないが、」鬼頭氏は「これは使えそうだ、うまくいけばノイズキャンセリングヘッドホン全体の消費電力を減らし、必要となるバッテリーのサイズを劇的に小さくできるはず」と踏んだのだ。
ちょうどそのころ、社内でバランスド・アーマチュア・ドライバーユニットの開発に成功しそうだ、というニュースがあった。ドライバーユニットを社内で作れるのであれば、製品への最適化もしやすい。しかもバランスド・アーマチュア・ドライバーユニットは小型、高感度、密閉性が高いことなど、ノイズキャンセリング・ヘッドホンにうってつけではないか……という期待が膨らんでいった。
そして、マイクである。MDR-NC300Dはコンデンサマイクによって周囲の音を取り込み、DSPで処理を行っていた。ただ、コンデンサマイクは径が6mm、厚さが2mm、さらにワイヤーを半田付けする必要があり、サイズの面ではネックとなっていたのだ。それに対し、次期ノイズキャンセリングヘッドホン用の有力なマイクとして、高性能なMEMS(微小電気機械システム)マイクが挙がった。
MEMSマイクなら非常に薄型で、消費電力も小さく、しかも回路基板上に直接実装出来るため、さらなる小型化の実現が可能になる。MEMSマイク自体は従来から携帯電話用に使われてきたが、対応する帯域が狭く、とくに低域ノイズの収音に向かないものが多かった。しかし、鬼頭氏が目をつけたMEMSマイクは、低域での特性も良く、これを使用してみることにしたという。
新採用のDSPを利用することで、DSPでの消費電力をなんとMDR-NC300Dの1/30に削減することができた。これならば従来と比較して圧倒的に小サイズのバッテリーで駆動が可能になる。もちろん、バッテリーの大きさとバッテリー駆動時間はトレードオフの関係にある。業界では飛行機で東京−ニューヨーク間で使い続けることができる15時間という基準がひとつの目安としてあったが、今回の製品ではそれを越える20時間駆動できる製品を目指して開発していくことになった。
さて、バッテリーを小さくすることは可能になった。では、どうするか。コントロールボックスを小型化して取り回しを良くするのか。否である。
バッテリーに関しては、なんとインナーイヤーヘッドホンの本体と一体化させてしまう方向で設計していくことになったのだ。そのデザインを任されることになったのはMDR-EX33/34、DR-BT101やアメリカの若者向けのスタイリッシュなPIIQシリーズなどを手がけてきた森澤 類氏だった。
「ライター2つ分くらいのハコだった電池ボックスを、耳に入るほど小さくするというラディカルなインナーイヤーヘッドホンのデザインは、非常にやりごたえがあり、デザイナー冥利に尽きるものでした。何も語らなくてもモノを見れば伝わるのが、この設計のインパクトです」と森澤氏。
実際にデザインを始めてみると、さすがに一筋縄ではいかない。やはり耳の中に入るものとしてはどうしても大きすぎるのだ。森澤氏は各部品を模型化したものを組み合わせて何十通りものパターンを作り、根気強くデザインを推し進めていった。
「普通、こうした作業は3Dのソフトを使ってパターンを作成しますが、このときばかりはひたすら手作業で模型を作り続ける、職人的な仕事になりました。いくら良さそうに見える形に落ち着いても、実際に耳に入れてみないと装着感はわかりません。しかも、製品の性質上、10数時間耳に入れても大丈夫でないといけない。装着感に関しては、自分で着けてみたり、周りの人にも協力してもらう中で装着テストを繰り返していきました」と森澤氏。
バッテリーの一体化とともに、こだわったのは充電方法だ。XBA-NC85Dでは、USB端子からの、非常にユニークな方法で充電が可能となっている。
「せっかく軽くてコンパクトなものができても、ここに充電用のAC端子をつけると、それだけでかなりのボリュームが出てしまいます。どうするか悩んだ結果の答えがこの充電方法なのです」と鬼頭氏がいうのは、ヘッドホンの端子を専用のUSB充電アダプターに接続し、それをUSBポートに接続して充電してしまうというもの。本来オーディオ信号を入力する端子からUSBの小さなアダプタを介して充電できるのなら、確かに非常に合理的だ。
従来に比べて、本体、充電装置ともに非常にシンプルになったXBA-NC85Dだが、その使い勝手もやはりシンプル。用意されているインターフェースはスイッチのオンとオフだけなのだ。オンにすれば音が聴こえるようになるとともに、ノイズキャンセリングが機能し出すのだ。
では、従来のように状況に応じたノイズキャンセリングのモード切替がなくなってしまったのかというと、そうではない。XBA-NC85Dでは周囲の騒音を常に分析し、最も効果的なキャンセル機能を自動で選択するフルオートAI(Artificial Intelligence)ノイズキャンセリング機能が搭載されており、使用者が意識することなく、最適なノイズキャンセリングモードに切り替わるのだ。
「余分な機能はすべて削ぎ落とし、シンプルさを追求しています。キャリングケースもいろいろと検討した結果、スマートに収納してビジネスに持っていけるシンプルで機能性の高いものに仕上げています」と森澤氏。
コントロールボックス、充電方法、意識的なモード選択など、いままでノイズキャンセリングヘッドホンに存在したさまざまな「不便さ」をばっさりと切り捨てたXBA-NC85Dは、音質だけでなく、「操作や持ち運びにかかわる煩雑さ=ノイズ」に至るまで極限までそぎ落とすことを目指した製品であり、従来のノイズキャンセリングヘッドホンとは明らかに一線を画す、新世代のスタンダード製品となっているのだ。