1990年以前の乾電池には微量の水銀が含まれていました。乾電池の負極に使われている亜鉛は、腐食反応で溶け出すとガスを発生させ、電池の性能を低下させるだけなく、電池膨れ、液漏れ、破裂等の原因となります。これらを防止するために、腐食反応を抑制する水銀が添加されていました。
つまり、水銀は電池の性能、安全性を守る上で欠かせない物質だったのです。
水銀は乾電池だけでなくボタン電池にも使われています。
10年ほど前までは、負極に水銀を使用した「水銀電池」という名のボタン電池も存在していました。この「水銀電池」は、1942年第二次世界大戦中にアメリカのルーベンによって開発されたもので、当時の電池の中で最も性能が優れていたことから、戦争で使われる無線機器の電源として重用されましたが、現代に入り、マンガン乾電池、アルカリ乾電池の無水銀化が実現する中、電極に大量に水銀化合物を含む「水銀電池」の必要性を問う声が高まり、日本では1995年末に生産停止となっています。
しかし、一部を除き、ボタン電池では今も水銀が使用されています。これはボタン電池に含まれる水銀が微量であること、ボタン電池における無水銀化は技術的に困難であること、などの理由から例外的に認められているためです。こうした中、ソニーはすべてのボタン電池の無水銀化への取り組みを続けてきました。
社会的な水銀への関心のもと、全国の自治体では乾電池の回収などの対策が講じられるようになりました。同時に乾電池メーカー各社は水銀使用量を減らすための研究開発に取り組み、1991年にはマンガン乾電池の、次いで1992年にはアルカリ乾電池の無水銀化が実現されました。
そして2005年に世界で初めて、ソニーがボタン電池のひとつである酸化銀電池の無水銀化に成功。技術革新の継続により2009年、再びソニーの手によって電池性能は従来品のまま安全性を高めたアルカリボタン電池の無水銀化が実現しました。
人類と水銀の歴史は古代にまで遡ります。中国では殷代から、ヨーロッパではギリシア時代から、エジプトでは紀元前1500年頃のお墓の中から、日本では縄文時代の土器や土偶などの装飾に使われたほか、古墳の石室や石棺などからも水銀の痕跡が確認されています。
水銀の大規模な使用例として、天平勝宝元年(749年)に鋳造された東大寺の大仏の金メッキがあります。
高さ約15mにも及ぶ巨大な大仏の金メッキには、天平勝宝4年(752年)から天平宝字元年(757年)まで5年の歳月が費やされ、錬金1万436両(440kg)、水銀5万8620両(2.4t)が使用されたと記録が残されています。
大仏へのメッキは、まず金と水銀の合金を表面に塗りつけた後、大仏の中から炭火で加熱し水銀を蒸発させたと考えられています。またこのとき、銅で鋳造された大仏にそのまま金と水銀の合金を塗りつけてもうまくのらないため、酸苗(梅酢と考えられています)を下塗りするなど、現代と同様の高度なメッキ技術が用いられていたようです(現代では硝酸水銀を下塗りしています)。
金メッキのために使われた2.4tもの水銀は、5年に渡り水銀蒸気として平城京を覆ったと考えられています。結果、多くの水銀中毒者を出して都が機能停止してしまい、やむなく平安京に遷都したのではないか?という説もあります。